銚子時間

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銚子湊と利根水運のものがたり

ものがたり

商港、銚子湊

茨城県との県境にあたる銚子の北部は、縄文時代には古鬼怒湾が、そして約1,000年前には香取の海が広がり、各時代、この水域を利用して、銚子と他地域との交易・交流があったことが推測できる出土品が発掘調査をした遺跡から出土しています。  縄文時代の粟島台遺跡では、神津島産の黒曜石や東北・西関東地域の特色を持った土器が出土し、古墳時代の椎柴小学校遺跡からは、東海地方で作られた土器や北関東で産出する緑色凝灰岩という石材が見つかっています。余山貝塚で作られた貝輪や骨角器、海岸線に露頭しているチャートや古銅輝石安山岩などの岩石が石器を作る材料として、「銚子石」と呼ばれる砂岩は砥石などに利用され、銚子から周辺の地域に運ばれていきました。この銚子石は、中世には石造物の材料として現在の霞ケ浦周辺の地域に、そして江戸時代には「海上砥(うなかみと)」として江戸に大量に運ばれました。また、粟島台遺跡から出土したコハクも当時の大切な交易品であると考えられています。

香取の海は、蝦夷征討時の兵士や兵糧米等の運搬時に水上交通の重要な役割を持ち、沿岸にある香取神宮や鹿島神宮は、この海の利権を掌握し、強大な権力を持っていました。香取の海で船が往来していたということは、その要所に船着き場や湊があったことを示し、当時はそれを「津」と呼んでいました。1374年(応安7)の「海夫注文」には、現利根川から霞ケ浦・北浦に存在した「津」として、「野じりの津」「飯沼くわうやの津」などの記載があります。

マサバ

銚子漁港の水揚げ風景

市内に残る銚子石で組んだ石垣

銚子沖で黒潮と親潮が交わる太平洋もまた、人やモノを銚子へ運ぶ重要な役割を担っていました。江戸時代、黒潮は鰯を運び、鰯が紀州をはじめ関西からの旅網の漁師たちを銚子沖に誘いました。漁師たちはしだいに銚子に住みつき、外川をはじめ、飯貝根、長崎、名洗と漁場を開き、銚子漁業の礎を築き、現在、日本有数の漁業の町として発展しています。 また、黒潮との関わりを示す銚子らしい文化財として粟島台遺跡から出土した「ヤシの実容器」があります。黒潮にのって運ばれた「ヤシの実」を浜辺で拾い、漆を塗って、容器にした縄文人の知恵には驚くものがあります。

白幡神社の庚申塔

東京湾に注いでいた利根川が、現在のように銚子で太平洋へ注ぐ流路となったのは、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進し、水運を開いて東北と関東の交通輸送ルートを確保するためといわれています。 1594年(文禄3)の会(あい)の川の締切りから60年もの歳月を経て、1654年(承応3)、利根川は銚子で太平洋に注ぎ、我が国最大の流域面積を誇る利根川が誕生しました。さらに、1665年(寛文5)に関宿から赤堀川に通じる逆川が改修され、利根水運は直接関宿を経て、江戸と結ばれるようになり、利根川流域には、年貢米輸送のための河岸が設けられました。

銚子が大きく発展し、江戸時代末頃に江戸、神奈川、水戸に次ぐ大都市に発展した要因の一つが、利根川が銚子で太平洋に注ぐ流路に変更されたことです。東北地方からの廻米を運ぶ東廻海運の湊であり、江戸へ荷を運ぶ積替基地となった銚子湊は、飯沼、新生、荒野、今宮、松本、本城、長塚、松岸の8ケ村に渡り、その中心を担っていたのは、飯沼から今宮の4ケ村で、特に荒野村は東北地方の米を扱う御穀宿や一般商荷を扱う「気仙問屋」が建ち並び、醤油醸造関連施設もありました。荒野村は明治以降に郡役所などの行政機関や金融機関が集まるとともに汽船の荷物取扱所が置かれ、銚子の中心地となったのです。 飯沼村には銚子陣屋が置かれ、また田中玄蕃をはじめとする豪商も居住していました。飯沼観音の北東にある和田船溜は、利根川の波浪が強い時の船の停泊地並びに利根川水運の河岸として、近世以来重要な役割を果たしました。本城河岸は東北から入航する大型船の避難泊地、長塚河岸は高瀬船の停泊地となり、河岸の周辺には商業機能が生まれ、町場が形成され、今もその町並みの面影は残っています。

銚子市の西部地区にも利根水運の河岸として賑わっていた高田河岸・野尻河岸・小船木河岸がありました。この地域は、1374年(応安7)の「海夫注文」に「のじりの津」という記載があり、古くから「津」としての機能を有し、中世、中島城を居城として海上氏がこの地を治めていた際、網による漁が行われ、1560年(永禄3)には野尻の宿商人中に対して船木・野尻宿に塩荷を下ろすことが命じられています。中世期からの飯岡や九十九里方面との関係のほか、房総の外海を経由して、江戸へ至る舟運ルートの航海が容易ではなかったので、野尻河岸などでは米の輸送だけではなく、干鰯や〆粕などの輸送も行っていました。 この地域の有力な商人として、戦国期から領主海上氏に抱えられた宮内家(高田町)と滑川家(野尻町)、江戸後期からの宮城家(高田町)などが挙げられます。宮内家は、中世から近世に至るまで廻船を中心とした流通業を核として、旧飯岡町(現:旭市)など九十九里方面からの塩荷を扱うなどの当地域一帯の経済活動に大きな影響を与えた商人です。江戸時代に入ると、滑川家は御城(ごじょう)米(まい)運送問屋としての地位を築き、椿領や銚子領を中心とした城米運送を幕府から任されていました。この3つの河岸では、魚肥などを中心に澱粉や醤油などが新たな輸送品として加わり、昭和初期まで水運業は盛んに行われました。

水運は、物資輸送だけではなく、旅人を運ぶ乗合船や貸切遊覧船も生まれました。木下河岸(印西市)から出港する木下茶船は東国三社詣の参拝の遊覧船として人気を博し、三社詣と銚子磯めぐりコースは4~5泊の船旅であり、水運を利用し、多くの文人・学者・芸人が押し寄せ、学問や文芸に興味を持つ人々が増加しました。

小浜町の辻切り

明治期に入り、利根水運による廻米は輸送されなくなりましたが、河川交通は存続し、物資や人々の往来を助け続けました。1881年(明治14)、銚子汽船会社が設立され、蒸気船「銚子丸」が銚子から木下まで就航し、年々利用頻度が高まっていましたが、1897年(明治30)年、総武鉄道が東京と銚子を結び、1933年(昭和8)には利根川沿いでも佐原-松岸駅間の鉄道が開通したことで、水運利用は減少していきました。

「てうしみち」と呼ばれた「銚子道」は、利根川に沿った信仰の道でもありました。鎌倉時代、坂東三十三観音霊場が成立し、飯沼観音は第二十七番札所となり、近世中期以降は多数の一般庶民の信仰の対象となりました。飯沼観音までの道程を示す石柱の道標が、森戸町、高田町、長塚町にあります。これは、1783年(天明3)から1784年(天明4)頃に眞永が建立したもので、「飯沼観世音江○里」と刻まれ飯沼観音までの里数を示しています。  また、商いの道として「多古銚子街道(銚子街道)」があります。この道を使って、1695年(元禄8)に徳川光圀一行が多古を出発して、太田村(旭市)に一泊し、翌日野尻村滑川家で一泊して、その翌日野尻河岸から土浦に向かったと伝わっています。太田村やその近隣の成田村、網戸村には、匝瑳(そうさ)郡内や九十九里沿岸の村々から米や干鰯などの魚肥などの荷が集積され、それが野尻河岸等を経由し、江戸へ運ばれ、街道筋には「てうし道」と刻まれた道標が残っています。

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