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銚子人気質「てんでんしのぎ」のものがたり

ものがたり

多くの恵みをもたらす海、ときには災害も

銚子の河口は、「阿波の鳴門か、銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と言われるほどの日本三大海難所のひとつでした。銚子の地名は、利根川河口の形状が酒器の「お銚子」のように狭いことに由来しているという説があり、河口が狭く、北東方向を向いていること、北東方向から吹く強風が三角波を起こすこと、そして水面下に多数の岩礁があるなどが理由で非常に危険な場所であったことが広く知られていました。銚子の海岸線沿いには、地質時代の硬い岩石が露呈していることが、この岬の地を生み出した要因でもありますが、この硬い岩石も航行する船にとっては危険なものとなりました。

1614年(慶長19)の海難事故で多くの犠牲者が出た際、千人塚(川口町)を建てて、犠牲者を供養しました。1816年(文化13)徳本上人による法要が営まれ、「南無阿弥陀仏」の名号塔が建立されて、現在も毎年一回、慰霊と供養のため「川施餓鬼法要」が行われています。 銚子には、「銚子の川口 てんでんしのぎ」という言葉があり、その意味は「銚子の川口では、周りの船が転覆しそうになっても手を出すな。自分の船は自分で守れ」、つまり「自分の身や命は自分で守れ」ということです。 また、黒生周辺の海域にも無数の岩礁があり、1868年(慶応4)榎本武揚が率いる幕府の軍艦8隻が函館に向かう中、黒生沖で暴風雨にあい美加保丸が遭難し、13人の犠牲者が出ました。その後も、1891年(明治24)の石崎丸、1910年(明治43)の「2月遭難」などの海難事故が多く発生しています。2月遭難で奇跡的に助かった乗組員たちは、日頃から信仰していた和田不動堂(和田浪切不動)(川口町)に絵馬を奉納し、生涯参拝を怠らなかったと伝えられています。 このような度重なる海難事故も一つの要因として、濱口吉兵衛(ヒゲタ醤油)は、漁港整備を決意し、衆議院議員となり、国や県へ働きかけ、1925年(大正14)から漁港整備事業に取り組み始めました。銚子漁港は河口を利用した漁港となるため、治水上の問題と漁船の遭難防止の問題を調和させながら計画を進める必要があり、工事着工までの間、多くの紆余曲折を経ながら、平成13(2001)年度までの長い月日をかけ、銚子漁港は現在の姿に整備され、海難事故も減少しました。

2011年(平成23)3月11日、東日本大震災の地震と津波は、私たちに大きな衝撃を与えました。銚子でも津波が発生し、建物などに被害はみられたものの、人的な被害は免れました。三方を水域に囲まれている銚子では、海は私たちに多くの恵みをもたらし、それを活かし、支えられて暮らしていますが、時に災いにも向き合ってきました。 1677年(延宝5)の延宝地震の津波は君ケ浜から高神村まで到達し、その高さは約17m(遡上高は最大20m)であったと推定されています。また、1614年(慶長19)の津波は、出漁中の船が遭難し、1,000人以上が溺死したと伝えられています。また、1102年(康和4)、高神の高見の浦が大津波の被害を受けた際、海神の怒りを鎮めるために行われた祭事が銚子大神幸祭の始まりで、現在まで約900年続いています。この神事は、東大社(東庄町)、豊玉姫神社(香取市)、雷神社(旭市)の三社が銚子の外川浜へ渡御したことが起源で、現在は20年に一度執り行われています。

東日本大震災時、津波で流された漁船

津波の被害を受けた銚子マリーナ

銚子沖(犬吠埼)は、沿岸を航行する船舶にとって変針点となり、船舶航行の要所となっています。そのため、西洋式の灯台「犬吠埼灯台」が1872年(明治5)着工、1874年(明治7)11月15日に初点灯し、この建設に尽力したのは、お雇い外国人であるリチャード・ヘンリー・ブラントンです。国産レンガを使った貴重な建造物で、今でも現役の航路標識であり、参観灯台としても活躍しています。また、ここには濃霧等で灯台の光が遠方まで届かない天候時に「音」で海上航行する船舶に灯台の位置を伝える「犬吠埼霧信号所」、通称「霧笛舎」がありました。かまぼこ型の屋根の鉄造の建物は、1910年(明治43)竣工、2006年(平成18)に用途廃止となりましたが、6月6月にかけて濃霧が多く発生する銚子沖では、非常に重要な施設でした。 1908年(明治41)に逓信省が日本で最初の無線電信局を作ったのも銚子で、銚子半島は位置的にも申し分なく、1960年(昭和35)から1972年(昭和47)には世界一の無線局となり、全世界の海上通信の要となり、日本の近代化を支える西洋の技術を活用した海を守る施設が銚子に整備されたのです。

岩に砕ける波頭と犬吠埼灯台

霧笛舎と犬吠埼灯台

第二次世界大戦の末期、銚子は米軍の爆撃機B29が関東各地へ向かうための飛行経路に位置していました。銚子防空監視隊が犬吠などに設置した監視硝で昼夜を問わず敵機を監視し、発見時には東部軍司令部へ報告しました。1945年(昭和20)2月、下志津陸軍飛行学校銚子分教場(春日町から上野町)が攻撃され、この後、2度の空襲を受けました。同年3月の新生町や興野町を中心とする市街地への空襲では、火災が発生し、多くの建物を焼失させ、同年7月の空襲では市街地は壊滅的な被害を受けました。この時、焼失を免れた公正會館(現銚子市中央地区コミュニティセンター)が病院として利用され、約200名もの負傷者の治療が行われたと伝えられています。

旧公正市民館

銚子ジオパークでは、2009年(平成21)の東日本大震災後に発足した防災まちおこし研究会と連携して、「銚子・水とともに生きる‐太平洋・利根川がもたらした恩恵と災害‐」をテーマにダークツーリズムとしての活動の仕組みを整備し、大地の成り立ちを学び、自然災害からの減災につなげるための学習を提供しています。

犬吠テラステラス1階にある銚子ジオパークビジターセンターにはジオガイドが常駐している

銚子大橋の夜景

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