銚子市内には、190か所の遺跡があります。発掘調査により確認された銚子で最も古い時代の遺跡は、約28,000年前の旧石器時代の三崎3丁目遺跡(三崎町三丁目)で、旧石器人の台所跡と考えられている焼けた礫(石)がいくつも固まって検出された「礫群」が数ケ所確認されています。ここでは、チャートなど銚子の海岸沿いで確保できる石材を使った石器や黒曜石のように銚子では確保できない石材を利用した石器などが出土しています。三崎3丁目遺跡を代表する旧石器時代から粟島台遺跡や余山貝塚などの縄文時代以降、この土地で人々が生活していた痕跡が数多く残されています。
律令期以前の銚子を含めた香取郡、匝瑳郡などの下総東部地域は、「下海上国造」の領域で、香取の海沿岸に本地域を統治していた首長たちの墓と推定できる大規模な古墳が造営されています。銚子でも市内最大の前方後円墳である野尻1号墳(野尻町)をはじめ弁財天古墳(船木町)などが利根川を見下ろす下総台地上に造られています。この時期の集落跡は、野尻遺跡(野尻町)や大宮戸遺跡(春日町)、椎柴小学校遺跡(小船木町)などがあり、下総台地と香取の海沿岸に平行して形成された浜堤や微高地上に遺跡は確認されています。大宮戸遺跡は古墳時代前期の土師器で赤彩が施されている坩などが住居跡からまとまって出土し、椎柴小学校からも古墳時代前期に属する遺構が検出しています。また、椎柴小学校遺跡からは、北関東地方から運ばれてきた「緑色凝灰岩」や東海地方の土器などが出土していることから、香取の海を活用した活発な交易活動を伺い知ることができます。
発掘調査の様子
律令制に基づく国の統治が始まると、銚子市と旭市は「海上郡」に属し、この郡内には「三前」「三宅」「船木」の3つの郷が置かれ、この3つの地名は、今も町名として残っています。「三前郷」は先にあげた春日町の大宮戸遺跡や大宮神社周辺と推定され、「三宅郷」は海上国造の統治下で「屯倉」が置かれていたことに由来する郷名であるとされ、現在の三宅町周辺という説があります。「船木(舟木)郷」は船木部が置かれ、造船用材木を扱った地域であると考えられています。香取の海は蝦夷征討のための交通の要所で、中央政権にとっての要の地でもあり、香取の海を眼下に望む当地域は国を統治するために大切な役割を担う地域でした。
銚子の市域は中世の下総国海上郡三崎庄(海上庄)の領域で、三崎庄の平安時代後期の在地領主は、平常兼の子で海上与一を名乗った平常衡と子の常幹、孫の常春でした。常春は片岡常春を称し、『延慶本平家物語』では源義経軍に属し壇ノ浦で平家が滅亡したとき海中に沈んだ神璽が浮かんだところを取り上げたとし、『義経記』では常陸国の鹿島行方の荒磯に生まれたとして、海に慣れた武将として物語られています。 しかし常春は、1185年(文治1)に常陸国の佐竹義政に同心し謀反(むほん)を企てた疑いにより所領を没収され、三崎庄は千葉常胤に与えられます。その後、三崎庄内の船木郷(舟木郷)と横根郷は常春に返付されましたが、1189年(文治5)に再び没収され、これ以後、三崎庄の全域は千葉常胤が地頭として支配することになりました。
千葉常胤は鎌倉幕府の成立とともに下総国の守護として大勢力を築き、その6人の子が千葉氏の本家のほか相馬・武石・大須賀・国分・東の各家に分かれ下総国内に割拠しました。「千葉六党」と呼ばれるこの6家のうち、海上庄の地頭識を譲られたのが東庄を本拠地に東氏の祖となった胤頼です。そして、胤頼の孫の胤方・胤久・胤有が海上庄を分領され海上氏を称しました。 海上氏の惣領(本家)は、胤方から子の胤景へ、さらに胤泰・師胤・公胤・憲胤へと継承され、ほかに胤方の子盛胤が本庄を、行胤が船木を称し、盛胤の子のなかに辺田・高上・松本・馬場・飯沼を名字とした者がいて、庶子家が庄内の各地に分かれてそれぞれの土地を支配しました。室町時代になると、鎌倉公方の奉公衆となる者があらわれ、また御所奉行を務める者もいて鎌倉府での活動が確認できます。小田原北条氏の勢力が下総国に伸びた戦国時代末には千葉氏本家の力が衰えていきますが、海上氏による当地域の支配は維持され、豊臣秀吉によって北条氏が倒された1590年(天正18)に至るまでその支配は継続しました。
中島城跡(中島町)は、利根川の河口から西北西約10㎞の標高40m前後の下総台地の突端部にあります。北西から延びる台地に北と西から小支谷が入り込み、先端部がくびれ、西方に開析された長い谷奥から流れて沖積地を蛇行し、「香取の海」に流入する高田川が防御、交通、灌漑等の役割を持つという、領域支配の拠点として非常に適した場所に立地しています。 城の規模は、東西約500m、南北約400m、主郭部は空堀で区画されている複郭構成で、周囲に腰曲輪があります。台地上は現在、ほとんどが畑ですが、畑の造成などで土塁が崩されたり、空堀が埋められたりしています。現在の城郭遺構については、規模の大きさと折り歪みを持つ空堀が造られている点から戦国時代後半の築城と考えられています。等覚寺(とうかくじ)(岡野台町)所有の「金銅経筒(こんどうきょうづつ)」(県指定有形文化財 1985年(昭和60)3月8日)に見られる「施主平胤方」銘や地域に伝わる伝承などにより鎌倉時代から居館(きょかん)があったと推定されていますが、まだまだ不明な点が多い遺跡です。中島城周辺には、海上氏ゆかりの古寺社や石造物などが数多く残されており、この一帯が海上氏の本拠地と考えられています。
等覚寺山門
中島城域に関係する現在の集落は、城内のほとんどを占める中島町と東裾部に位置する三門町、海上氏関連の寺院が残る岡野台町や正明寺(しょうみょうじ)町です。地域に残る字名をみると「要害(ようがい)」や「中城」「古屋」など城郭関係の地名が残り、屋号にも三門町の「中城」など城に関係するものが見られます。また、城の周囲を高田川から取水した用水路である逆川が巡り、道端には信仰の歴史を伝える石造物が残っています。
海上氏の居城と考えられている中島城の周辺には、現在は廃されてしまったものも含めると多くの寺社が存在し、海上氏との関係を示す様々な資料が遺されました。等覚寺は、1390年(明徳1)に中島城主山城守(理慶・公胤か)が願主となり、領内のはやり病の平癒を祈願して創建されたと伝えられています。また、現在等覚寺に安置されている「木造薬師如来立像」2躯と「木造菩薩立像」1躯(いずれも県指定有形文化財1989年(平成1)3月10日)は、本来は引接寺(現在廃寺)の仏像であったと推測されています。さらに1944年(昭和19」に岡野台町大字高見倉で発見された「如法経、奉為非母禅尼也、建長四年壬子(1252年)二月五日、施主平胤方」の銘がある「金銅経筒」も等覚寺に伝えられています。千葉氏一族の守護神であった妙見神についても、堀内神社(岡野台町)に1335年(建武2)の墨書銘が記されている「木造妙見菩薩立像」が祀られています。堀内神社は中島城の海上氏が妙見神を祀った神社であり、棟札(むなふだ)によると1541年(天文10)に海上持秀らにより再興されています。 中島城から少し離れている常世田山常燈寺(じょうとうじ)(常世田(とこよだ)町)の「木造薬師如来坐像」(重文指定1959年(昭和34)6月27日)の胎内に記された1243年(仁治4)の墨書銘によると、同像の修理は阿闍梨栄慶が大勧進となり、海上胤方の妻が2貫文寄進するなど、多くの奉加衆(ほうがしゅう)の寄進により行われたものでした。常燈寺の1526年(大永6)の棟札には「大檀那海上殿平持秀((花押))」の墨書があり、海上氏が戦国時代まで常燈寺を崇敬し保護していたことが知られています。
「常世田薬師」と呼ばれ信仰を集める常灯寺本尊
坂東三十三観音霊場第二十七番札所の飯沼観音
飯沼観音は円福寺の本堂で、養老年間(717~724)に海中より十一面観音像が引き上げられ、草庵に安置したのが始まりです。この飯沼観音が坂東三十三観音霊場第二十七番札所として、海上一族の庇護(ひご)を受けて発展した歴史を知る手がかりが、円福寺所有の中世文書にあります。1416年(応永23)千葉兼胤が円福寺に参詣、1436年(永享8)に千葉胤直が大蔵卿律師の円福寺寺領相続を安堵したなどの記録が残っています。また、1446年(文安3)に「大檀那海上殿 平胤栄、平胤義、隆近、平胤春、龍女」の銘がある銅製多宝塔が寄進されるなど、海上氏代々の篤い信仰が続きました。養老年間から始まった飯沼観音への観音信仰により、多くの参詣者を銚子へ招き、その門前が銚子の市街地形成の礎となっていったのです。
サケが遡上することもある高田川
逆川