本市は、利根川沿いの低地などに米を作る水田が限られているため、下総台地上での畑作が農業の中心で、農業産出高の約70%が野菜です。主な生産物はキャベツやダイコンで、特に春系キャべツの生産は全国一を誇っています。他地域よりも早い時期に出荷できるのは、銚子沖で黒潮と親潮が交差し、海洋性の気候であることが大きく影響しています。
16世紀に入り、天下統一を果たした豊臣秀吉が行った太閤検地の記録が市内にも残っています。1591年(天正19)9月1、2日に実施された猿田村(現猿田町)と同年10月9日に実施された柴崎村(現柴崎町)の検地帳※1です。検地を行った役人や地元案内人、耕作地の筆ごとの字名、縦横の間数、土地の種類や等級、面積、取米、土地所有者、耕作者が記載されています。その後も1612年(慶長17)に三崎村(現三崎町)で、1655年(明暦1)に高上村(現高神東町、高神西町)で検地が行われた記録が残っています。
米作りに適した土地は利根川沿いの低地ですが、利根川は塩水が混じり、水田に引く水として利用することには不向きで、水を確保することは至難の業でした。高田川流域の野尻・高田・芦崎・船木台・中島の5つの村は三門(みかど)の堰を利用していましたが、各村々で水争いが起こり、役人に訴えている古文書が残っています。今も残る「お水番小屋」には、曜日によってその用水を利用している町内名が掲げられています。また、長塚町にある「七ツ池」も江戸時代中期に干ばつに悩まされた地域の人々により溜池として造られました。三方を水域に囲まれている位置にある銚子では、時代ごとに水域(海や川)から恩恵を受け、上手く利用し、発展をしてきましたが、灌漑用水を整備するために大変な苦労をしました。
お水番小屋
逆川
江戸時代中期頃になると、米と小麦の栽培が中心であった銚子で甘藷栽培が始まったと言われています。寛保年間(1741~1744)、今宮村(いまみやみやむら)唐子(からこ)(現唐子町)の薩摩屋佐兵衛が甘藷栽培をして、江戸へ出荷した記録があります。『塵塚談(ちりづかだん)』の宝暦年間(1751~1764)の江戸での甘藷流通に関する記録によると「上総、下総、銚子、岩槻、伊豆大島、そのほか諸所より多く作り、江戸へ運送す。銚子を上とし大島より出るを島芋というて絶品なり」とあり、銚子産甘藷は江戸で高い評価を受けていたようです。そして、利根水運を利用して、関東各地へ運ばれ、しだいに東北太平洋沿岸の港へ輸送され、人気を博していき、明治末から大正期になると鉄道輸送へと変わり、全国へ販路が広がっていきました。第二次世界大戦後、甘藷は代替食糧として需要が高かったのですが、米の安定供給が可能となると需要が低下し、価格変動が激しくなり、収益性の高い作物への転換が求められるようになってきました。
明治中期以降、青物用の甘藷栽培以外に、工業原料としての甘藷栽培にも力が注がれました。1889年(明治22)、本銚子町の石橋重兵衛が蘇我町(現千葉市中央区)から講師を招き、澱粉作りを習得し、銚子での生産が始まったと伝えられています。当初は、小規模で、農業の副業という程度のものでしたが、次第に有力な農家が製造工場を設置し、生産を開始しました。1907年(明治40)には27軒の工場がありましたが、1914年(大正3)には67軒と増加し、昭和の初め頃には工場の大規模化が見られるようになり、大正時代前期には醤油醸造業に次ぐ産業へと成長しました。第二次世界大戦後の砂糖不足でさらに澱粉の需要が高まりましたが、戦後、1951年(昭和26)に砂糖の統制が廃止され、澱粉の需要が激減し、1960年(昭和35)以降市内の澱粉工場も閉鎖を余儀なくされました。
農家の屋敷
この頃、畑作の中心は甘藷と麦で、野菜は自家用栽培の一部を農家が市内へ引き売りしていた程度でした。麦作の生産が不安定で、甘藷の価格変動も激しく、所得の安定などを目指し新作物の導入を検討した結果、「キャベツ」が採用され、1953年(昭和28)から試作が始まり、試行錯誤を繰り返しながら、先進地への視察研修や市場動向調査などを重ね4月に出荷できるキャベツ栽培の導入を決定、1955年(昭和30)に本格的な春系キャベツ栽培の第一歩を歩み出しました。その後、1957年(昭和32)「灯台印」のブランド化により他産地との差別化が成功したことにより春系キャベツが誕生しました。現在の繁栄を作れたのは、栽培に成功しただけではなく、集団栽培、共同販売体制の整備、また共同販売賛同者を募り、県の指導を得て、共同販売を展開できたことが要因といわれています。農家の人々は、自分たちの住む地域の風土の特徴をよく知り、甘藷栽培の衰退に対応できる絶好のタイミングを見極め、キャベツ、大根、トウモロコシと蔬菜(そさい)栽培に力を注ぎ、一大農業生産地化を推し進め、メロンなどの園芸作物の栽培にも取り組んでいます。
キャベツ畑と銚子電鉄
市内に伝わる農業に関連する祭事には、西部地域に伝わる「おぴしゃ」や「花見正月」が形式の変化はみられるものの今も受け継がれています。また、三崎町の大宮神社で行われる「杉みこし」も五穀豊穣のために行われていると地元の方は話してくれました。 江戸時代、天明の大飢饉の際、高崎藩の代官として銚子陣屋に派遣されていた庄川杢左衛門が、独断で高崎藩の銚子米蔵を開き、米を配給し、銚子の人たちを助けたという話が残り、杢左衛門を偲ぶ「じょうかんよ節」という民謡と踊りが作られ、今なお市民の間で受け継がれています。天明の大飢饉では、野尻村(現野尻町)の滑川藤兵衛家が長屋門※2建設を、高田村名主の宮内清右衛門家では高田河岸の整備をそれぞれ救い普請(ぶしん)として行ったと伝えられています。
庄川杢左衛門の墓に花を手向ける市民たち
「じょうかんさま」庄川杢左衛門の墓
※1いずれも県指定有形文化財 「天正検地帳」下総国海上郡三崎庄猿田郷村野帳(1982年(昭和57)4月6日指定) 「天正検地帳」下総国海上郡三崎庄堀之内枝柴崎之郷屋敷帳及び水帳(2004年(平成16)3月30日指定) ※2国登録有形文化財建造物滑川家住宅長屋門(2017年(平成29)6月28日登録)