1616年(元和2)、摂津国西宮の酒造家で海産物問屋を営んでいた真宜九郎右衛門が、銚子の豪農3代田中玄蕃に製造法を伝授し、ヒゲタ醤油が始まりました。これが銚子での醤油醸造業の始まりとされています。その後、1645年(正保2)に紀州広村出身である初代濱口儀兵衛が銚子に渡り、創業したのがヤマサ醤油です。現在、市内では創業1941年(昭和16)の宝醤油と創業1875年(明治8)の小倉醤油を含めた4軒が醤油醸造業を営み、岩崎重次郎が起こした山十商店は「醤(ひしお)」を製造しています。
銚子で醤油醸造業が発展した理由は、銚子沖で黒潮と親潮がぶつかりあい、温暖多湿で夏冬の気温差が少ないという気候が、醤油作りに欠かせない麹菌などの育成に適していたこと、醤油造りに必要な大豆や小麦、塩などが霞ケ浦周辺の地域で賄えること、利根水運によって江戸への輸送が可能であったこと、といわれています。
醤油樽の展示
銚子で醸造を開始した頃の醤油は「溜(たまり)醤油」で、江戸で消費される醤油は、紀州や関西などからの「下り醤油」がほとんどでした。ヒゲタ醤油5代田中玄蕃が、江戸の食味に合うように、小麦や米麹等を利用して醸造法を改良した結果、現在の濃口醤油の基礎ができ上がり、これが江戸で大評判に。銚子の醤油醸造は大いに賑わうことになりました。 江戸の町の発展に伴い膨れ上がる人口、その発展を支える労働力だった「江戸っ子」には、色・味・香りが良く、味付けが濃い「関東風の醤油」が好まれ、1770年(明和7)頃からしだいに「地回り醤油」が中心となり、これにより、今に続く江戸の食文化が開花したといわれています。 明治に入り、醤油は庶民にとっては食生活の必需品となり、消費がますます増えていきますが、醸造は手工業的な要素が強く、1893年(明治26)、10代濱口儀兵衛(梧洞(ごどう))が国内初の醤油研究所を開設し、製造方法の近代化へ取り組みました。そして、市内の醤油醸造業の事業者は機械化・工業化に取り組みながら、生産の効率化や集約化を図り、企業間で合併等をしつつ、生産力の拡大に努めていきました。
ヤマサ醤油のレンガ造りの壁
銚子の商人たちは、利根水運による江戸との商いで、江戸に支店を持ち、頻繁に江戸と銚子の間を往来しました。その中で、江戸で流行の文化に触れ、経済力を背景に江戸文化人のスポンサー的な地位も築いていくのです。 小林一茶は、文化・文政時代に度々下総各地の俳友や弟子を訪ねて来遊し、銚子の豪商大里家に滞在しました。当時、名だたる俳人を銚子に招き、浄国寺の望西台(ぼうせいだい)などで句会を開いた大里氏は「桂丸」という俳号を持ち、自ら俳諧に親しむなど、江戸文化に魅了されていました。また、平田篤胤・鉄胤は、下総遊歴で多くの門人を受入れ、下総国学を発展させ、猿田神社や石上酒造にはその時の資料が残されています。 利根水運により銚子から江戸へ、江戸から銚子への人の往来がしやすくなったことが、江戸の文化を運び、地域文化を醸成していくことにつながったといえます。その一つとして、宮内嘉長開創の「守学(しゅがく)塾」など幕末から明治にかけて私塾が立ち上がり、市内の各町内に「寺小屋」が開かれ、筆子塚なども残っています。 1853年(嘉永6)にヤマサ醤7代濱口儀兵衛を名乗った梧陵(ごりょう)は、実業家としてだけではなく、社会福祉事業や政治活動に力を注ぎました。梧陵は銚子で開業していた医師関寛斎(かんさい)をコレラ予防の研究のため江戸へ送り、二人が中心となり銚子でのコレラ防疫と治療に尽くしました。さらに、佐久間象山や勝海舟、福澤諭吉等との交流が日本の近代化の発展につながっていきました。また、10代濱口儀兵衛(梧洞)は、社会教育事業のために私財を投じて、1924年(大正15)に財団法人公正會を設立し、夜間中学公正學院と公正圖書館の設置運営、講堂利用による各種社会事業活動を行い、その活動の場として「公正會館」(現銚子市中央地区コミニュティセンター)を1926年(大正15)に建設しました。 濱口吉兵衛(1914年(大正3)に銚子醤油合資会社を設立)や13代田中玄蕃らにより銚子駅と外川をつなぐ鉄道敷設について検討が繰り返され、1912年(明治45)に銚子-外川間に蒸気鉄道の敷線を申請し、1913年(大正2)に銚子—犬吠駅間が開業しました。
旧公正市民館
千葉県は醤油生産日本一で、国内生産量の3割を銚子と野田で占めています。1616年(元和2)に始まった銚子の醤油醸造業は約400年経過し、今なお市の中心市街地に工場群があり、独特の都市景観となっています。空襲や1970年代までに関連施設が集約されたことにより、明治から昭和初期の醸造施設は残念ながらほとんど残っていませんが、1920年代に新設された施設が、主力として機能しており街路に面した煉瓦造りの建物の壁など歴史的な趣を見せている景観も残っています。かつての工場跡地が市役所などの公共施設に転用されているという歴史も市の発展に貢献した証であり、大切に守り、伝えていくべき銚子資産です。
濃い霧が立ち込めて、途中で消えて見える銚子大橋