銚子時間

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海の恵みを運ぶ、黒潮のものがたり

ものがたり

銚子沖の豊かな漁場が日本有数の水産業の町へと成長させました

銚子沖は黒潮と親潮が交わり、さらに利根川からの栄養分が流れ込み、全国屈指の好漁場です。現在、銚子漁港は9年連続水揚量日本一を記録し、沖合の大型漁船から沿岸の小型漁船による漁業が盛んに行われています。また、銚子漁港を中心に水産物流基地や加工拠点があり、200種類を超える魚介類が水揚げされています。県内はもとより首都圏や全国各地に新鮮な水産物を供給するための運送業や漁業資機材の製造販売などの関連産業も多く、水産業は銚子の基幹産業です。

銚子の漁業の歴史は、縄文時代まで遡ることができます。縄文時代前期から中期を中心とする「粟島台遺跡」からは、漁に使う網に錘として装着した「土器片錘」や「丸木船」などが見つかっています。また、縄文時代後期から晩期が中心の余山貝塚では、シカの角や骨で作られた「釣針」「ヤス」「モリ」が出土し、貝塚からはスズキやクロダイなどをはじめ大型のクジラやイルカなどの骨も確認され、これらの漁労具を使って捕獲していたことがわかっています。当時、余山貝塚周辺は、対岸の茨城県神栖市の砂州が今ほど発達せず、外洋に近く、古鬼怒湾が広がっていました。海に面し、海の幸を求めて、縄文人は果敢に海に立ち向かっていきました。縄文時代の遺跡の出土品から漁業の町としての第一歩が縄文時代から始まったことが読み取れます。

約1,000年前に「香取の海」と呼ばれる内海が広がり、銚子を含めた香取の海の南岸の地域は、大和朝廷にとって蝦夷平定に向かうための交通の要所となりました。また、この内海での漁業権を掌握していた香取神宮や鹿島神宮は強大な力を持ち、沿岸の住民が漁をした漁獲物の一部を税として納めることで、漁業活動を保証していました。 1374年(応安7)の「海夫注文」には、「飯沼くわうやの津」「かきねの津」「のじりの津」という「海夫」と呼ばれる漁夫の居住地の場所が記され、海を生業とする人々がいたことを伝えています。1573年(天正1)、野尻と高田の商人の間で「網代」(漁場)をめぐる争いが起り、在地領主であった海上氏の裁許文書が残されています。

江戸時代に入り、紀州や摂津の漁民が集団で黒潮にのって銚子沖で漁を始め、漁獲が上がると紀州等へ戻っていきました。しかし、しだいに旅網で漁をしていた人たちが銚子に居住し、飯貝根や外川、長崎等に漁場を開き、漁業集落を築いていきました。紀州からやってきた﨑山治郎右衛門は、銚子に移住した当初は飯貝根に住んでいましたが、その後、外川へ移り、碁盤目状の街づくりをし、紀州から大勢の人を呼び寄せ、「外川千軒大繁盛」と呼ばれるほどの漁業の町として発展させました。外川は銚子漁港が整備されるまでの間は、銚子の漁業の中心地で、「銚子漁業発祥地外川港 開祖 﨑山治郎右衛門碑」という記念碑が大杉神社境内に建っています。  地元の草分け百姓であり、銚子で初めて醤油醸造業に取組んだ田中家の5代玄蕃は伊勢地浦※(現在の海鹿島町)での築港など漁業の分野でも力を注ぎました。 ※伊勢地浦は「伊勢路」や「伊勢地ケ浦」という表記も使用されています。

大量に水揚げされたイワシは、「干鰯」や「〆粕」の材料として利用され、浜辺に干鰯場が広がっていました。これらの肥料は「金肥」として利根水運により江戸へ運ばれた後、関西地方へ送られ、木綿栽培には欠かせない肥料として大変需要がありました。その後、「干鰯」や「〆粕」は化学肥料に代わられ、第二次世界大戦の開始に伴い食料品の加工へ移行しました。戦後も缶詰等の食料加工品の製造が中心で、サンマやサバを原料とした加工製品が主流となっています。 江戸時代以降、漁家は漁業と水産加工、漁業資器材の製造などを一括して行ってきましたが、漁船の能力の向上や冷凍冷蔵庫の普及、水産加工の原料となる魚の供給先の拡大等により年間を通じて工場の稼働が可能となり、それぞれが産業として独立することができるようになったため、分業化されていきました。

『板子一枚下は地獄、落ちれば死につながる恐ろしい海』といわれ、漁業は危険な仕事でした。それ故、漁業関係者は海にまつわる信仰を大切にしています。利根川の河口は、日本の三大海難所の一つといわれており、海難事故が多く、河口を見下ろす「千人塚」は水難で命を落とした人々の慰霊の場所で、今でも毎年一回「川施餓鬼」の法要が営まれています。 利根川河口の高台にあり、出船入船を望むことができる川口神社は、漁業従事者から篤く信仰されています。漁師たちは未曽有の豊漁となった1864年(元治1)にその感謝と船の安全を祈るため漁業の情景が詠みこまれた「大漁節」を作り、奉納しました。一年の最初の出漁の際に一年間の漁の無事と豊漁を祈る儀式である「漕出」や旧暦6月15日には「大潮まつり」が執り行われます。 また、境内には、たくさんの「亀墓」もあります。亀が漁網にかかると、とっておきの酒をふるまい海に帰し、万一釣針にかかって死んだ時は自分の祖先よりも立派な墓を作り、敬うという習わしがあります。この「亀墓」は妙福寺や長崎、恵比須山等にもあり、川口神社には「鯨墓」もあります。

豊かな恵みをもたらし、危険な海へ挑んでいく男たちを送り出す女性たちは、無事に海から陸へ戻り、豊漁を願うために「明神講」や「初午稲荷講」として祈りを捧げました。江戸時代初期に利根川をはさんだ旧波崎町(現神栖市)で発祥した「波崎縮」の技術が江戸中期に銚子へ伝わり、縮を織る機屋が40軒以上を数え、「銚子縮」として一大産業をなし、江戸の町へ運ばれ、漁師の妻たちが産業を支えました。また、長崎には海藻類を採集する根付漁業を支えた海女がいました。1897年(明治30)には、「琴柱角股(コトジツノマタ)」という海藻を水産博覧会に出品し、昭和20年代には代用醤油の原料となったカジメを採取し、昭和30年から昭和45年頃最盛期を迎えました。

明治に入り、産業の近代化や物流の輸送手段が鉄道へと変わっていく中で、本市では1898年(明治31)に東京まで運航する総武鉄道が開通しました。そこで、利根水運の役割が減少し、商港であった銚子湊を漁港へと整備することを決定しました。しかし、銚子湊を漁港として活用し、発展させていくためには、日本三大海難所であった利根川河口の整備をする必要があり、非常に困難な事業となりました。しかし、濱口吉兵衛らの努力により、漁港の近代化に成功し、1960年(昭和35)に特定第3種漁港の指定、1963年(昭和38)から第3次漁港整備長期計画が始まり、近年、水産物流の拠点として衛生管理や品質の向上を図り、第1卸売市場を「高度衛生管理型市場」として整備するなど銚子漁港の機能強化を進めています。

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